愛に生きる男の過去日記
11月5日『磨』〜12月20日『理』


 
 この3連休、横浜に行ってきた。BBSにもちょこっと書いたように、従妹の結婚式があったのだ。

 前回の日記に書いたように10月末日は私にとって少なからずダメージの大きい日だった。生活のほとんどを論文執筆に割いていたため2泊3日分の準備なども全くしておらず、31日の夜に慌しく荷物を詰めた。何がどうって、スーツ+。特に靴が面倒で、かさばるうえに押し込んだりすると型が崩れてよろしくない。しかも今回は父のスーツと靴も私の荷物に入れていったので、妙に大荷物になってしまった。しかしまぁ、何と言っても 財布 親と一緒の旅行だと何かと都合の良いことあり、行きの新幹線はグリーン車だったし、道中のコーヒーや弁当、タクシー代なども全て親持ちだったのでヨシ。

 結婚式。本当に、良かった。純白のドレスに身を包んだ従妹を見たときは思わずグッとくるものがあった。幸せ一杯の二人から、幸せを分けてもらった、そういう思いがした。心から、二人の今後に幸多からんことを願っています。

 3月にも友人の結婚式で東京に行った。その時も言われ、そして今回も友人や後輩から言われた言葉がある。






『“候補”でもええけぇ、
 ヨメ見付けて帰らんと』






 まぁ、ね(悩)。そりゃ「今年は2次会も含めて結婚式が多いなぁ」とか同級生の娘が小学校にあがったとか後輩に念願の彼女ができてそいつが別の後輩にノロケを炸裂させてるとか、まぁ色々考えるこたぁありますわな(汗)。
 実際以前の日記にも書いたように「人肌のぬくもり」っていうものに焦がれることもあります。ぬくもり、誰かとぎゅっと抱締め合える、そういう幸せを大切に思えるってことは、自分はこれまで幸せな人生を歩んできたんだなと思う。だからこそ、むしょうに切なくなることもあります。だから今は、今ではまだ誰だか判らない“その人”と抱締め合う日が来た時、“その人”をしっかりと抱き締められるよう、また、その人の胸に頬をうずめられるよう、自分を磨いていきたいと思います。
2003年11月05日 01時36分38秒


 
11月1日の日記を見て、大事なことを忘れていることに気が付きました。


論文執筆に際し、家族をはじめ多くの人達に迷惑をかけ、
また、励ましてもらいました。


その経験から的確な助言を下さった先輩方、

電話やメールの返信が無くても気長に付き合ってくれた友人たち、

心配そうに声を掛けてくれて、
最後には必ず「頑張って」と言ってくれた後輩のみんな、


その全てが自分にとって何事にも代え難く、
思い出すと涙があふれて来そうです。


今度は『みんなのおかげでやり遂げられました』と報告できるよう、
これからも頑張ります。


本当に、ありがとうございました。
 
2003年11月06日 01時07分03秒


 
 総選挙前日だというのに選挙のハガキが届いていない愛に生きる男です。選挙権剥奪されるような悪行を働いた覚えはないのですが(悩)。投票日は日曜なので、だいたいその2週間前くらいには届くはずだと思うのですが、まぁ今日の配達で届くことを祈っています。国民の権利であり義務だと思うので、しっかり行使したいと思います。

 選挙といえば、今回の横浜旅行のとき、当然ながら当地にも選挙ポスターが貼ってありました。こんなHPでも、選挙期間中に立候補者の名前を出すと何かあったらいやなので伏せますが、某総理大臣のポスターが普通に貼ってあったのはちょっと新鮮でした。そういやあの人の地元って神奈川だったなぁと思いました。



 今回の旅行は、何かと盛り沢山な旅だった。行きの新幹線がグリーンだったことに始まり、初日はホテルチェックインの後父親と丸ビル→六本木ヒルズと見て回った。BBSにもあるように地下鉄六本木の駅では後輩の裕子(マジでかわいいです)にバッタリ会った。私が地下鉄に乗って六本木駅に入り、列車の速度も落ちてホームの人の顔も判別できるようになった時、ドアの外に彼女がいたのだ。地下鉄の乗降のわずかな時間しかなかったのでその時はお互い「なにしてんのー!?」と言って別れたのだが、いやいや、偶然ってのは恐ろしい。世間は狭いとはよく言うが、あれだけ多くの人がうごめく東京で出会ってしまうとは、やっぱり運命なんでしょうか(照)

 初日の晩は前日に横浜入りしていた祖父母、両親、姉、兄夫婦と中華街あたりに夕飯にと思っていたのだが、さすがに秋の3連休でこの人数、そう簡単には店もみつからず、結局ホテルの中華レストランでの食事となった。夕方には六本木から帰った私と父は、皆がそれぞれホテルに戻ってくるまでバーで一休みすることにし、父はカールスバーグを頼んでいた。 ここでも、財布 親と一緒の旅行の利点を活用して『マッカラン 12年』を頂いた。実に、旨かった(悦)。しかし万事が万事、そううまくは運ばないようで、まだ半分ほども残っている間に母から『みんなバーの前まで集まったよ』とのメールが届いた。早々と飲み終わっていた父はサッサと席を立ってしまい、私は泣く泣くマッカランを一気にあおった(泣)。まぁ、美味しいのには間違いなかったんだが(泣)。そして注意しないといけないのが、ご存知のようにマッカランはスコッチウィスキーなので度数も普通に40度ほどはある。それを空き腹で一気にあおったのだから、のどゴシの感じなども推して知るべしである。実際には普段からウォッカなど、比較的強い酒を好んで飲んでいるのでそれほど強烈には感じなかったのだが、薫り高い良い酒を一気にあおらざるを得ないことが無念だった。
 そんなこんなで夕食も済まし、ひと段落ついた後、今度は祖父母以外の6人でホテル最上階の展望ラウンジに集まった。その頃の関東地方は天気がイマイチで窓の外もうっすら煙ってかすんでいたが、晴れていると眼下に横浜の夜景を一望し、遠くはみなとみらいやベイブリッヂ、はては富士山までも見えるのだという。かすんでいるとは言っても、近めのところは結構見えていたので、それなりに楽しむことはできた。このラウンジでは『グレンフィディック 12年』『バランタイン 12年』を飲んだ。どちらもそれぞれ全く違う、旨いウィスキーだった。

 両親は2日の式が終わった後に広島に帰り祖父母は式場から横須賀の従妹の家に行ったため、姉と兄夫婦、私の4人が横浜に残っていた。3日は兄夫婦は宇都宮と日光に向かい4日に広島に、私と姉はそれぞれ別行動で日中を過ごし、夕方の新幹線で帰る予定にしていた。その新幹線の席を予約しようと午前10時ごろにみどりの窓口に行ったのだが、3連休最終日の夕方とあって満席状態であった。当初16時50分かその前の便を検討していたのだが、悉く満席で、最も近い空席を取ると18時50分の便になった。しかもその日は禁煙の指定席が終日満席で、18時50分の便でも喫煙席しかなかった。相当辛かったのだが、一か八かで禁煙自由席を狙ったところで立ち乗りにでもなったら目も当てられないので、やむなく喫煙の指定席を確保した。

 この日は後輩のあ○みた○みと3人で中華街で昼飯を食べ、そのあと元町→山下公園→みなとみらいへと徒歩で移動した。小雨のなか結構な距離の徒歩を付き合ってくれて、二人には感謝しています。た○みとは先月の市大祭で会ったが、○さみとは3月の彼女の卒業以来で本当に久しぶりだった。またた○みとあさ○が会うのも久々だったようで、3人とも時間を忘れて延々と語り続けた。二人の間では「関東での飲み会もやろうよ!」との話もされていた。思えば論文執筆の時にもたくさんの励ましをもらい、今回のようにフラッと遊びに行っても何だかんだで相手をしてくれる。もちろんそれが全てではないのだが、自分が長々と大学に居座って得た最大のものは、たくさんの友人だろう。何事にも代え難い、私の宝物だ。



 この旅で、ふと目についたものがある。






「横浜市立軽井沢中学校」






 …なんだと?
2003年11月08日 15時09分32秒


 

わがこころはいま大風の如く君にむかへり

―――――高村光太郎
2003年11月09日 00時32分49秒


 
 さて、と。
 ふと気が付けばまた随分と更新の感覚が空いてしまった(汗)。まぁ復帰以来なかなかのペースで更新してたので、これもご愛嬌ってことで了解してください、お願いします(泣)


 もうすぐ12月。私には年末の恒例行事が2つある。その一つが学部の同期生での忘年会である。
 学部の忘年会は今年で5回目になるが、そのうち今回を含めて4回、私が幹事をしている。そもそも卒業する時に「じゃあ忘年会担当はオマエな。」みたいな取り決めがあったわけではない。記憶をたどってみると、発端は学部を卒業した99年の6月にあったように思う。

 学部の同級生のうち4年になる時に10人弱ほどが休学したため、彼らは自然と卒業が1年間遅れることになったのだが、その中にヂョン(日本人)という男がおり、彼は生まれ故郷であるイスラエルに留学をしたのだった。そのヂョン(日本人)の帰国が99年の春だった。
 また、同じく同級生にトシというどうしようもない男がいた。彼は進路に大学院進学を選択し、卒業後は渡米することになっていた。ご存知のように欧米の大学はセメスターの開始が夏からで、当然彼の渡米もそれに合わせてのことであった。その準備のため、トシが広島を引き払って岐阜県の実家に帰るのが同じく99年の初夏のことであった。
 この2人の、ヂョン(日本人)の「おかえり会」とトシの「もう帰ってこなくていいよ無事に頑張ってこいよ会」を口実に飲み会を開いたのが99年6月だった。この時は確か、40人ほどが集まってワイワイ楽しんだ。この時同級生ほぼ全員に連絡を回せていたことから、その人脈把握から「忘年会もやろうよ!」と、誰からともなく言われたのだった。
 そして今年も幹事として動いているのだが、今年は10月末に向けてほぼ全てを放っぽり投げて論文態勢に入り11月に入っても何だかんだで忙殺されていたことと、精神的にも辛い時期があったので、ちょっと幹事としての仕事は手抜きしていた。しかしここにきて流石に時期的にも迫ってきたので、昨日は「忘年会の連絡の日」としてそっちに専念していた。おかげで昨夜のうちに早々と店の予約も済ませ、あとは人数の確定をするだけまで漕ぎ着けることができた。店の人とも電話口で長々と相談し、「まぁまだ日にちもありますし、人数増減も対応しますからじっくり決めてくださいね」との有難い言質もいただいた。何回も幹事をやっていて感じるが、お店の人とこのような遣り取りができるのはすごく心強いのだ。
 そして忘れてはならないのが、同級生たちのヘルプ。如何に言っても私一人で100人超に連絡を取り切るのは至難の業。そこで毎回、「○×と連絡とれる?」とか「〜の7人、ちょっと多いんじゃけど確認とってくれるかね?」みたいな感じでお願いしているのだ。特に前回からの1年間では、迷惑メール対策の関係で携帯のメールフィルターが強くなってPCから送信したメールが弾かれて戻ってきたり、J-PHONE→Vodafone移行でのアドレス変更、結婚や転居に伴うPCアドレスの放棄などが非常に多く、連絡にかなり難航している(泣)。それでも既に同期の7割強に既に連絡を入れられているのは、やはりみんなのヘルプがあってのこと。それに加え、連絡の時の「今年もそろそろ連絡来る思っとったよ!毎回ありがとね」との言葉が物凄く励みになる。実際のところ、これだけ連絡を回しても仕事や県外居住などの都合で参加できるのは40人前後になっている。しかしその中でも毎回参加な奴、卒業以来初めて会う人などさまざま。幹事としての理想はあくまで「全員参加の大同窓会・忘年会」だが、毎年やっていくことで今回来れない人や県外にいる者、長く音信不通だった人たちにも「年末にはアイツの忘年会があるよ」と思ってもらえたら、それはすごく幸せだなと思う。私が毎年幹事を買って出る最大の動機だ。もちろん、私自身もみんなと会って話をしたいしね。
2003年11月24日 10時01分48秒


 
 
人間は常に迷っている。
迷っているあいだは、常に何かを求めているのである。

――――ゲーテ
2003年12月02日 02時13分48秒


 
 『最近の愛に生きる男』を見ていると分かっていただけると思うが、日記を除くここ数回の更新はリンクの修正・追加となっている。その時、当HPのリンクページを見ていただければ分かるのだが、ちょっとしたコメントを添えて紹介文としている。メールやBBS経由で「よろしくー」みたいなのが来るので、相手方の希望に沿うカタチで作業にとりかかるのだ。で、このところリンクの更新が続いた時に思いついた。この「愛に生きる男」のホームページ、有難いことにいくつかのページにリンクを貼っていただいている。
 そしてふと思った。



ウチって
どんな風に紹介されてんだろう?




 なんで、ちょっと見て来た。

 一言にリンクページといっても、ウチのみたいに文章を添えているものばかりではない。リンクするHPが多い所などは、単にリンク先HPのタイトルのみをジャンル別に整理するというカタチをとっている。mejiri web sitesazmなどがこの体裁をとっており、ライフライブスペースやお店の名前が並ぶ中に突然「愛に生きる男」との語があるのを見るにつけ、思わずニヤリとするのだ。『どのHPもひとしく』といった、管理者様の思いを感じられる。当HPも、そういった意味では分け隔てなく大事なのに変わりはないのだが、個人がやっているのでどうしても“思い入れ”のようなものが出てしまう。それが、前述の紹介文を添えるということになったのだ。

 ではこのHPにリンクを貼って下さっているところでは具体的にどういった紹介がされているのか。一番最初にここにリンク貼付の連絡をくれた河野氏は「The output of sin」で「大学の大先輩、ひげ氏の全天候型無志向性(馬並)HP。日記、掲示板、チャット有り。人望厚く、各方面から人が集まります。」と紹介してくれている。また同じくHP開設初期にリンクしてくれたmint28%さんは「☆mint28%のホームページ☆」で「さすがです!馬力溢れる個性派ページに皆さん吸い寄せられています。」と紹介してくれており、中でも「力溢れる」というフレーズに彼女のセンスの鋭さを感じずにはおれない。
 mint28%さん同様、トップページに載せられる私の写真に着目してくれているのが「Catnap Station」主宰のEllie。その紹介文には「大学の大先輩。トップの馬の写真のインパクトがすごいです。日記は爆笑、掲示板は市大生で賑わっています。」と、日記や掲示板の様子についても触れてくれている。深江隆寿@amigocorporationの「Amigocorporation the Homecourt」では「『誰もがみんな知っている』愛に生きる男さん主催のHP。広島○立大学コミュニティーと化している感もあります。日記は彼を知る人ならば大爆笑でしょう。知らなくても結構笑えます。」と紹介されている。「結構笑えます」の「結構」にひっかからないわけでもないが。

 ここまで紹介したものは、いわば正統派の紹介をしてくれていると言えるだろう。が、その他には我がサイトの放つ神々しいオーラのため、的確な紹介に苦しむ例もあるようだ。例えばお気に入りのスリーピースバンド「LUFTHANZA」のHPでは「分類できないから新しく『愛』のコーナー作りましたよ。愛!!」と、『music』、『create』に加えて『愛』という新たなカテゴリーが設けられている。さらにクリエイトユニット「SORA」のHPでは「説明不能。愛に生きてる男の生き様を見るべし。」とされ、「生き様を見るべし」との言葉に漢(おとこ)としての熱い滾りがこみ上げてくるのだが、よく見るとそこでは一切の説明が放棄されていることに気が付くのだった(汗)

 ともあれ皆さん大事なお友達。HP持ってる方も、掲示板などに参加するだけの人も、はたまた「見てるだけ」の人も、今後ともよろしくです。
2003年12月04日 01時23分27秒


 
 
思いはめぐる、時の移ろいとともに。

――――愛に生きる男
2003年12月07日 02時07分40秒


 
えーと、


なんでいまだに
扇風機が3つも出てんだオレの部屋は(悩)。



片付けないと(汗)。
 
2003年12月13日 17時35分29秒


 
やはり失恋とは辛いものであります。

でも、かなり長い時間がかかったけど、
大事な言葉を伝えることができてよかった。

ありがとう。
2003年12月20日 21時56分05秒






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