愛に生きる男の過去日記
2009年6月29日『相』〜2009年9月24日『曰』







 こんばんは、人呼んで「恐怖の上半期」を絶賛体感中の「愛に生きる男」であります。いやー、後から後から事態が深刻化してくるのって、ゾクゾクしますね(苦笑)。


 具体的に何をどう考えるかはこの序論に於いてはひとまずさて置き、このところ、自分を取り巻く環境や諸条件など様々な要素が変化してきている様に感じている。それは一面に於いては能動的変化であるものの、一方では受動的変化という側面も有している。故に事態は非常に複雑であり、否、あらゆる物事は常に多面的であり、したがって往々にして直面するあらゆる事態は相当程度の複雑性を有しているわけだが、この文脈に於いては「自意識として感じる限りにおいて」との条件付けをした上での議論となる。そうして直面する複雑性を前にして、色々なことに少々辟易としつつ、何とか日々の動きをこなしている、といったところである。

 自らの位相を考える際、自意識として感じているものと他者から見た場合との間には、少なからず差異が生じる。そこを、突かれる。一義的にはそこに油断が生じてしまう自分の弱さでもあるのだが、一部に於いては自縄自縛とも取れる要素も内包しているように思う。すなわち、確固たる個が必要なのだ。

 おおむねこういう場合は、自らに由来する精神面の弱さが原因となっている事が多い。何とか切り返し、起死回生を図りたいところではあるが、そこには不退転の決意が必要と思われる。要は、腹を決めてかからねばならないということである。別に命まで取られる訳でもあるまい、とは私自身もよく使う表現ではあるが、時として何物にも代え難いと思うものを危険にさらすことにもなる。つまりは現在そういうせめぎ合いを演じている、という事である。おぼろげに見えてきたかに思われた解は、どうやら多少見当外れだったのかもしれない。状況を動かすのは、やはり自分自身であらねばならないのだ。  

2009年06月29日 23時18分39秒







 こんばんは、依然として更新の間隔が(略)「愛に生きる男」であります。画像は愛用のオーディオのアンプで、そこからひょっこり顔を覗かせているのは友人のcornel君です。去る7月8日に彼のアルバムが全国で発売されたんですが、これはそのジャケット。今回の日記では、あまり私が長々と言うのも気が引けるので手短に、アルバム「Heart & Soul」の極めて自分勝手なレビューをば。少しでも興味がわいた(あるいは違和感を感じた)方はHPの方へぜひ。


 「名は体を表す」
 今回の彼のアルバムをして、こう表現しようと思う。タイトルの「Heart & Soul」には、「Heart」と「Soul」という二つの言葉が用いられている。いずれも我々の耳によく馴染んだ言葉だが、今一度その意味を把握し直してみよう。

 「Heart」が持つ意味としてすぐに想起されるのは「心」や「感情」あたりだろう。そもそもの語源は恐らくラテン語やギリシア語あたりだろうが、他にも「愛情」「核心・本質」「熱意」など、多くの解釈を持つ言葉でもある。この「Heart」について、あまり巧くはないかもしれないが、一つトリックを掛けてみようと思う。
 作業はいたって簡単で、この「Heart」に隠された別の言葉を拾い出してみること。少し注意して見ると、「Heart」の中には「hear(聞く)」「ear(耳)」「art(芸術)」という言葉が見つかるのである。これに語頭の「He(彼)」を加えて敷衍すると、「彼の芸術に耳を傾ける」となる。また「art」には「芸術」の他に「作品またはその全体」という意味がある。では「その全体」とは。

 その問いを受けるべく在るのが「Soul」である。「Soul」には「魂」や「精神」というよく知られた意味の他に「熱情」や「気迫」等の意味を持ち、さらには人間そのものや生命をも表す言葉でもある。すなわち「Soul」は「全身全霊を以って」と解釈するに値する言葉であると言えよう。

 本作「Heart & Soul」は、そうした「全身全霊のパフォーマンスに、心して耳を傾ける」という姿勢が如実に表された作品である。劈頭を飾る「夜明け前」から終盤を締めるライブテイクまで、渾身の演奏と熱量が続く。しかしだからと言って大上段の構えを強いるものではなく、至って素直に聴き入れる。自ずと耳を傾け、いつしか心地よいBGMとなるはずである。
 またこうした姿勢は、我々聴き手のみならず、他ならぬcornel自身にも向けられているように思われてならない。本作には近年発表された最新の曲のほか、以前活動していた「S51」「mejiri」というバンド時代の曲も収録されている。自らの記念すべき全国デビューに際し、“遺品”ともとれる過去の作品を収録している彼の姿勢からは、それは単に残された“遺品”ではなく確かな重さのある“遺産”であり、しかも今なお輝きを失っていないものだとの自己主張が窺える。それは恐らく聞き手ではなく、彼本人が自身にそう語りかけているのではないだろうか。

 cornelとはそういう、ちょっと涙もろいアツい男なのである。  

2009年07月11日 23時01分48秒



誠に実に此世は試練の場所なり。
―――――内村鑑三
2009年07月21日 21時05分14秒







 こんばんは、今年も怒涛の集中講義にいそしんでいる「愛に生きる男」であります。今の体制での集中講義も3年を超えてくるので、さすがに全体の流れ等は大丈夫です。が、毎年けっこう大規模な少しずつマイナーチェンジを加えながら講義内容を組み上げてるので、それなりに大変ではあります。やり甲斐を持って取り組めてるので楽しくやれてるし、それは素晴らしい事かなと思います。


 mixiやMySpaceなどのSNSがユーザー数を伸ばす一方、この日記の読者は減っている。別にそれは悪いことではなく事実で、カウンターの進み具合からも分かることだ。小規模の企業の中にはブログをそのまま会社のHPとして利用している例も少なくなく、HP上で展開されるウェブマガジンの類も見られる。中には(あるいはその多くは)携帯から閲覧できるものもあり、PCからしか見られないこのHPなどは少数派に分類されるのではと感じることもある。また「iPhone」のように携帯電話でありながら一般のPCサイト閲覧が可能なものもあり、ウェブコンテンツの展開に「PC-携帯の連動」が欠かせない要素となっている事は特に他言を要すまい。

 そうした潮流の中で当HPが採るべき方策だが、基本的に何もしない。「基本的“には”」と限定的に条件付けをするのではなく、むしろ「原則として」という意味の方が近い。まさに「何もしない」こそが指針である。この宣言に特に大きな意味が込められている訳ではなく、どちらかと言うと「方向性の確認」といったところだろう。
 そもそもが「ノリと勢い」だけで始まったこのHPだが、2003年5月のスタートから今日まで、その「ノリと勢い」だけで続いてきた。なので週に何回も更新した事もあれば、「ノッてない」「失速中」といった時には更新間隔が開くなどしている。それも全てを自分任せに、気ままにのんびりとやってきたからこそ、と言えるだろう。“伝統を墨守”などと大仰なことを言うつもりはなく、“なるようになったから、今ここにいる”という感覚である。この良い意味での「勝手に」が、非常に楽に感じているところである。

 「何とかしてやりたい」という思いも強いが、ここではのらりくらりとやっていこう。根を詰めて勝負する場所はここじゃないはず、たぶん(笑)。  

2009年07月28日 23時06分17秒







 こんばんは、髪切ってさっぱりした「愛に生きる男」であります。4月末に切って以来なので3ヶ月半ぶりになりますが、いやー涼しい(笑)!美容師さんには「もう少し間隔短く来られたら楽ですよー」と当たり前のツッコミを受けました。


 正直に言うと「手こずっている」である。
 相手は、画像のデジタル一眼レフ「α100」。2006年の秋に発売されたカメラで、昨秋に中古で購入したものである。デジタルカメラのモデルチェンジのペースが早いため、今では2世代遅れのモデルとなってしまったが、絶対年数は今秋で3年。液晶モニタの解像度など最新鋭機に比べると見劣りする部分も多々あるが、画素数も1000万以上あるし、決ずしも「古い」という程でもないと考えている。今は主に大学の同窓会や友人の結婚式など、普段使っているフィルム一眼レフでは撮影が難しい室内でのシーンで活躍してくれている。

 そのα100だが、今一つ、使いきれていない感じがしている。一番よく感じるのは「撮りたいと思った画が、撮れない」である。「ファインダーでの見え方と実際の画像の撮影範囲が微妙に違う」というのは、APS-CサイズのCCDなので頭に入っている。色についてはホワイトバランスと色温度の設定を変えれば対応できるだろうが、まーいよいよという段階になったら「後で加工」という最終手段もある。シャープネス等も、同様に対処できるだろう。

 目下のところ、最大の問題は「手ブレ」である。このα100には「ボディ内手ブレ補正機能」というのが装備されており、ブレには比較的強いカメラである。それでもなお、撮影時にはきちんと撮れたと感じていても、いざPCに取り込んでプリントに回すと微妙なブレが確認されることが多いのだ。α100から一つ新しいモデルになると背面液晶の解像度が格段にアップするため確認もしやすいのだろうが、一応確認したうえで保存し、PCで拡大表示して初めてブレが分かるので地味にけっこうヘコむ

 自分なりに原因を考えてみているのだが、いくつか思い当たる節はある。現在ではコンパクト機でも“1000万画素オーバー”は見られるが、原則的に考えてみるとやはり「物凄く画素数が大きい」という状態であるのは間違いない。より微細に、精細に撮影するが故にブレが目立つというのはあり得る話である。
 それでは「うちはブレとらんよー」というコンパクト機ユーザーからの指摘が入りそうだが、次に要素として採り上げたいのが「焦点距離」。焦点距離が短いほど広角(ワイド)に、長いほど望遠(ズームアップ)で撮れるのだが、要するにレンズのズーム長の問題である。焦点距離は長い(ズームアップ)ほどブレやすく、短いとその逆という性質があるのだ。そのため仮に性能表記が同じ「光学3倍ズーム」となっていたとしても、レンズの絶対距離がコンパクト機よりも一眼レフの方が長いため、ブレは生じやすい構造と言えるのである。また上述のように私がα100を使うのは「暗いシチュエーション」が多いため、必然的にシャッター速度も遅くなりることも、αでブレてしまう原因の一つと考えられるのである。

 そしてもう一つ、原因の一つではないかと考えている点がある。御存知のように私は複数台のカメラを使っているが、一眼レフだけで現在は3台を主に使っている。一つはメイン機であり最も使い慣れている「SR-1」、もう一つは昨年知人から譲り受けた「XE」、そして唯一のデジタルとなる「α100」である。
 ろざべすのように私の写真を数多く見てきた人なら分かると思うが、私がSR-1で撮った写真は、ほとんど手ブレをしていない。もちろん使い始めた頃や夕景など状況的に厳しい場合はその限りではないが、数千枚に及ぶSR-1での経験値が、私に“一通りの撮れる”との自信を培ってくれたと言えるだろう。
 それが、である。αについては先述の通りだが、SR-1よりも高性能な「XE」でも同様に微細なブレが出てしまうのである。つまりXEでのブレに関しては先に触れた「画素数」等は関係なく、バッチリ撮れているSR-1と基本的な条件は同一と言える。ではSR-1とXEとの違いは何か…

 こう考えてたどり着いた結論が個体に対する慣れである。ある意味オチに近いが、もはや考え付く可能性がこれくらいしか無いのだ。私が本格的に写真を撮るようになった時間は、そのままSR-1の使用歴と重なる。露出の「ろ」の字も知らないズブの素人が古いカメラを手にとって使い始め、あらゆる操作をこのカメラを基準に習得してきた。故に私の操作技術は「SR-1仕様」と言うこともできるだろう。そう考えると、重量やグリップ位置などあらゆる部分で“SR-1と違う”カメラで“SR-1と同じ”ように撮ろうとした際には、多少のズレ(=ブレ)が生じてしまうのは由無しとはしないだろう。もちろん“カメラの性能で、そうした微妙な感覚のずれは吸収できるのでは?”とも思うが、やはり既に述べたようにもーコレぐらいしか理由がみつからねえ(汗)。原因が本当にこの「慣れ」の問題だとすると、解決策はやはり「慣れ」。そして「慎重な操作」だろう。確かにα100やXEでは、SR-1よりも高性能という事で“気楽に撮り過ぎていた”という印象はある。この油断めいたものを抑えてしっかり使ってやって、どのカメラでも思うような写真を撮れるようにせねばと思う今日この頃。せっかく3台もいいカメラがあることだしね。  

2009年08月08日 22時31分09秒







 こんばんは、このHPのアドレスについて先日「ねえ、どう“良きに計らって”くれるの?」と尋ねられた「愛に生きる男」であります。いやー“どう”って聞かれても困るんスけど…(笑)。


 今年の花火大会は全部で3回。当然“私が行ったのは”という事だが、このスケジュールの中背中に冷たく突き刺さる家族の視線に耐えよく頑張った方だと思う(笑)。場所は県内1と山口2。花火という性質上必然的に帰途が深夜に差し掛かる事を考えると、山口での2回はもっぱらハンドルキーパーとしての面目躍如といったところだろう。

 何年くらい前からになるだろう。生来の汗かきで「夏は暑いから嫌いだ、脱いだらおしまいだし(照)」と公言してきた私だが、何年か前から何を血迷ったのか暑い時は、暑い時なりの楽しみ方がある!」と方針を転換し、夏は夏で全開で満喫するようになったのである。花火もそうして行くようになったものの一つで、それまでは何年かに一度、横川での太田川花火大会を観に行く程度だった。それが今では7月の早い時期から日程をチェックし、他の予定と擦り合わせながらギラギラした目つきでどこに行こうかと頭を悩ませる有様である。

 だからと言って、予定さえ空いていればいつでもどこでもホイホイと行くという事ではない。以前も触れた事があるが花火大会の会場というのは、お世辞にも華奢ではない男が単身、カメラや三脚などを担いで乗り込むには、少々酷な空間だと思いませんか。つまりは『一緒に行く人があってこそ』である。一人孤独にストイックになるのは、筋トレとかだけで十分だろう(笑)。確かに花火の迫力や美しさも魅力的なものだが、それ“だけ”で楽しむものではないような気がする。人は人の中にあってこそ、輝きもするし安らぎもするし幸せを感じるものだと思う。時には人の中にあるが故に傷つくこともあるが、その傷を癒せるのもまた人だろう。

 今年の花火も、いい花火だった。  

2009年08月17日 22時16分03秒



身体髪膚これを父母に受く、
あえて毀傷せざるは孝の始めなり。
―――――孔子
2009年08月25日 22時13分44秒






photo by まめこ


 こんばんは、いつの間にか2009年も3分の2が終わったという事実に気が付いたばかりの「愛に生きる男」であります。当初やろうと思っていた事と実際にできた事。比べてみた時の結果は往々にして想像に難くないものですが、まあ、そういう事です。よくある話ですよ。


 少しだけ、久しぶりに話をしてみた。“直接話した”ではなく、“その時の話をした”という事なんだけれども、やはり少し切なくはなる。確かに切ない思い出ではあるのだが、だからといってその事実を無かった事にしたいなどと考えている訳ではなく、それらの事実があってこそ現在の私があるのだ。温故知新とは少しく趣が異なるが、過去の積み重ねの上に如何にして未来への射程を描けるか。そう考えたいと思った。  

2009年09月04日 23時48分35秒







 こんばんは、この秋はサヨリ釣りに挑戦している「愛に生きる男」であります。今のところサヨリ狙いで2回釣行、釣果は1尾・6尾と順調に伸びています。毎回アジのサビキばっかりじゃあ飽きてくるしね。


 iPodを買い換えた。これまで使ってきた「Pod」は2004年末に購入(カコニッキ参照)。妙に厚みもあるし液晶も白黒だが、20GBという大容量のおかげで今日まで使い続けることができた。しかし数年前からはデミ男bのオーディオに接続して聴く機会が増えたため、過充電の影響もありバッテリーが90分持たないほどに性能低下してしまっていた。また私が聴くジャンルは洋邦を問わず、ジャズやクラシックからハードロック、メタル、R&Bまでまさに雑食、その様相は早朝の池袋のカラス以下と言っても過言ではないだろう。この悪食ぶりゆえに追加する楽曲も膨大な数に上り、“延命”の最大の功労者と言うべき容量の点での使用限界に達してしまったのである。

 長年使ってきた愛着のあるアイテムだっただけに、やはり寂しさは感じる。私が購入した当初は現在ほどデジタルプレーヤーが一般的に普及している時期ではなく、「京友禅」柄の携帯用ケースとともに友人たちに珍しがられたものだった。そのケースも長年の仕様に応じて、模様が消えかかった箇所も散見されるようになっている。とても気に入っているケースなのだが、現行モデルとサイズが合わないため、本体とともにこちらともお別れである。5年近い長い間、本当にありがとう。

 そういう経緯で新たに「classic」、160GBのモデルを発表後早々に購入したのだが、基本的な操作は共通。微妙な使用感の違いはあるが、これも使ううちに慣れていくだろう。容量は一気に8倍、当分困る事はなさそうだから、今度はこの「愛PodU」と仲良くやっていこう。  

2009年09月14日 22時08分18秒



理性はしばしば罪の奴隷となって、
これを弁解する。
―――――トルストイ
2009年09月24日 18時58分51秒






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