愛に生きる男の過去日記
2008年7月12日『大』〜2008年9月23日『吟』



 こんばんは、この2週間近く体調がすぐれない「愛に生きる男」であります。でもこの2週間と言わず、実はこの一ヶ月半ぐらい長期療養に入ってたので正直あんま変わんなかったりもします。もうじき夏も本番を迎えるし、ぼちぼち社会復帰せにゃいかんなぁと思う今日この頃です。


 何となく、ふと「カコニッキ」を覗いてみた。“この時期の日記を見よう”という具合に開いたのではなく、本当になんとなーく。この日記は基本的にその時々の出来事や考えていることをそのまま、時として赤裸々に書いているので、その当時の素の自分が垣間見えるのだ。気恥ずかしくなることもあるが、それもまた一興である。

 さっき偶然開いたのは「カコニッキ その20」、2005年の11月から12月にかけての10本である。この年のこの時期は、本当に思い出深い日々の連続だった。10月には大きな失恋をし、それに続いて10月末には博士論文の一次提出。落ち着く間もなく怒涛の論文審査が始まると同時に、失恋にともなう自己矛盾と反省・自責に明け暮れた日々だった。精神的にも肉体的にもそれまでにないほど追い込まれ、本当にヤバい時期だった。正直、いま振り返ってもゾッとする。しかしそのつらい時期を経たからこそ今の自分があると思えば、まあ良き思い出とすることもできるだろう(苦笑)。またそういう経験があるから、現時的に関わり合う諸問題についても、自らの糧とすべく取り組めるというものだ。

 そしてその「カコニッキ その20」をしめくくる、また2005年をしめくくる大晦日の日記に「おおばばん」が寄せてくれたコメントに思わず頬が緩む。そして、惜しい人をなくしましたいい友人に恵まれてるなぁとつくづく感じた。

 よーし、夏だ!  

2008年07月12日 21時00分21秒



 こんにちは、友人たちから「遊びの達人」と目される一方で実は休日に予定を入れるのがあまり上手でない「愛に生きる男」であります。何つーかこう、週末などの休みよりは連休とかの方が持て余してしまう傾向が顕著です。一たび計画が立てばそりゃもう必要以上の用意周到さを以て全力で遊び倒すんですが。


 先月からの約一ヶ月半、ある程度まとまった期間を療養にあてていたため、この期間の客観的に見る動態は比較的低調だった。しかし、必ずしも物理的動態と反比例の関係にある訳ではないが、主に思想・精神面を中心とする非物理的な側面での活動はそれなりに活発に行われていた。良くも悪くも「心が身体に引きずられる」ことはよくあるが、今回はそれがうまい具合に、低迷する「身体」に「心」が引きずられなかったのである。

 それはもう、逆巻く波濤の如く思索はめぐり、時間を濃密に費やすことができたと思う。

 その中で一つ、大きな論点として存在していたのが“中心と周辺”に関する議論である。国際政治や歴史、あるいは経済など社会科学においてはしばしば中核(core)と周辺(periphery)の概念として用いられるが、私の場合、そうした政治や歴史、経済といったいわゆる上部構造の議論のみならず、よりミクロの、私個人に関するレベルでの“中心と周辺”についても核心に迫る議論が展開された。
 発端は、物理的動態の低迷にともなう外的事象での非中心化が進んでいるという自覚である。「最近付き合いが悪いから、何かあってもだんだん声がかからなくなる」というのが分かりやすい例と言えるだろう。もちろん上に挙げた例の「付き合いが悪い」は単に“状態”を表す言葉であり、そこに各人の事情や意図は反映されていないことに留意が必要である。そういう側面からすると今回の療養と思索とは、関連性が全無とすることはできない。
 具体的な論考内容についてここで詳細に述べるのは避けるが、要点は上記からもうかがえるように自己の相対的周辺化に関することである。動態を低下させていくのとほぼ軌を一として、自己を取り巻く既存の関係性における位相が徐々に“周辺”化していくのが感じられたことがその発端である。物理的に関わり合いが薄くならざるを得ない状況なのでこうした「周辺化」は致し方ない事とも思われるが、それをどう把握するかが肝要である。この点から議論は始まる。
 それこそ雲霞の如く種々の命題を自己に課しては、各個渉猟していく。こうして案出される様々な「一定程度の有効性を持つ結論」を掌握・統合して、個として全体を構成する自分に対する指針を構成し直す。この修正と前進との反芻作業を延々と繰り返していったのである。

 そうした結果、“現時点での”“ある一定の条件における”と、やたらと前提条件がつくものの納得しうる結論として導き出されたのが「自己の中心化」である。先述の「周辺化」は「中心」なるものから漸進的に遠ざかり、いずれはその引力から離脱することを指している。その中心に再度接近を試みるのではなく、自らが中心となり引力・磁場を形成し、新たに動態を生み出していく。そしてそれは既存の「中心」とは決して相反するものではなく、恰も複数の「個」の集まりが「集合」を形成し、その「集合」が集まることでさらに大きな集合が生まれる。その上位の集合に於いては下位の集合は疑似的「個」であり、それが社会を構成していく。このような観点に立つ限り、選択と行動の選択肢は常に積極性の下に為されなければなるまい。

 「我」の主張、とでも言うべきか。  

2008年07月20日 15時07分07秒



知識もなくて想像力を持つ人間は、
足が無いのに翼を持っているようなものだ。
―――――ジュベール
2008年07月28日 19時48分44秒



 こんばんは、長期療養から復帰したにもかかわらず依然として咳が止まらず苦しんでいる「愛に生きる男」であります。身近な知人に「百日」のキャリアがいたものの、医者からは「大丈夫!」と検査ナシで太鼓判をもらっているので、きっと気のせいだろうと思います。その割に薬が続いて面倒ではありますが、盆に向けてしっかり調整していこうと思います。


 暑い。

 カンベンしてくれって…(苦)。  

2008年08月04日 20時45分11秒



 こんばんは、いま流行りのクロックスのサンダル“もどき”を買った「愛に生きる男」であります。はき心地は「本家」の方が良かったんですが、「もどき」でもひとまず満足できるレベルはクリア。そこで価格差が4倍ついてたら、やっぱ悩みますって(笑)。それに履けるシーズンなんて夏の間だけだしね。今日一日履いてみてさっそく靴ずれができました。


 ちょっと前に好きだった人の事を思い出して、ちょっとだけ感傷的になった。何で思い出したんだろーって思うほど唐突に思い出したので、いささか面喰いもした(苦笑)。

 こうやって書いてみて、少し立ち止まって考えてみたのだが、上で使った「感傷的」との用語、現在の彼女に対する心境を十分に言い表せているだろうか?おそらく答えは「否」である。そもそも人間の言語能力なぞ高が知れているし、心の中におぼろげに、しかし確かに思い描いていることの幾分かも伝えられてないんだろうと思う。そうであるからこそ、自分の気持ちを如何にして相手に伝えるか、この行為にこれまで人間は果てしなく心を砕いてきたのだろうと思う。だからこそ時には人を幸せにし、時には争いの原因ともなる。

 そしてだからこそ、気持ちと言葉が一致する極めて稀な瞬間に立ち会ったとき、そこには言い知れぬ力が宿り、人の心を動かす何かが生まれるんじゃないかと思う。

 自分の言葉に気持ちは宿っていたか、自らの心を偽った言葉を出してはいまいか。あの時の自分は、本当に人事を尽くしたのか。
 そんな事を考えるきっかけになった。こうした記憶があるから、自分に絶望せずに済んでいるのだと思う。  

2008年08月11日 20時54分33秒



 こんばんは、一部で「更新やめたの?」と思われ始めたらしい「愛に生きる男」であります。いえいえご心配なく、前回から2週間も遅れようが何事も無かったようにシレッと書いていく、このユルさがこの日記の醍醐味です(嘘)。どうぞこれからも長ーい目で見守りつつ、御愛顧くださいお願いします。


 このところ、「取り戻す」がテーマとなっている。自覚的に感じる部分で、以前の自分にあった“覇気”のようなものが感じられなくなっている。それを取り戻そうという話である。この数年にわたる長期の低迷が上向く気配は依然として感じられないが、しかしそれでも、何となく底を打ったような感覚があるのだ。もっともそう感じた上で更に底が抜けてしまったら、そりゃーもー大変なコトになるんだろうけれども(笑)。

 ではどうやって「取り戻す」のか。これについては具体的な方法論は持ち合わせていない。そもそも上述の「覇気」にしても、自覚的に体得していたわけではなく、周囲の友人たちからそう表現されていたにすぎない。であるなら、自然その形成過程も現象として明確化するのは困難と言える。すると「取り戻す」際の手段も、やはり暗中模索しながらとなるのが必然であろう。

 しかし考えてみるに、自ら意図せず自然と形成されてきた物に対して「取り戻す」という能動態の用語を用いるのは少々奇妙にも感じられる。上述の「覇気」なるものはあくまで周囲からの“評価”であり、他者に対象化された自己の一表象にすぎないとも言える。そのようなものを“回復”するとは、いささか滑稽な風合いすら感じる。

 だがやはり、ここは「取り戻す」なのだ。重要なレトリックが潜んでいるが、それを克服し得た時にこの“覇気なるもの”が自らの血肉に近付いていくはず。ゴールが見えないレースはなかなかに辛いが、辛い中にも楽しみを見出してこそ。平凡な日々の営みにも数多のドラマが隠れているのだから。  

2008年08月25日 22時20分59秒







 こんばんは、久しぶりにスコッチに手を出した「愛に生きる男」であります。このところ酒の量そのものが減っていたんですが、暑さもあってビールがメインになっていました。が、気候が涼しくなってきたのもあって、ちょっと飲みたくなったんです。


 上に挙げてあるスコッチは「Bowmore(ボウモア)」。アイラのシングルモルト。アイラのモルトはピートの香りが強いのが特徴だが、ボウモアはその中でも比較的ライトな感じという印象を持っている。もっともそれも、同じアイラでもアードベックやラフロイグ等の強烈なビート香を持つものと比べての話で、一般的な水準からすると十分に香りが強い。比較的ライトなピートと、ほのかで華やかな磯の香り。これが私のボウモア評であり、最も好きなモルトの一本である。それにアイラの中でも比較的飲みやすいため、人に進める際にも候補に挙がるモルトである。

 別に酒に限った話ではないのだが、好きなものと一緒にのんびりと、自身を緊張から解放して過ごす時間は、何物にも代えがたい。音楽だったり本だったり、好きな椅子だったり、人だったり。意識するか否かは別として、自らに隙を作ることが自然であり、また心地よい空間。

 酒が好きだしボウモアが好きであることに変わりはないのだが、それそのものだけでなく、こうした空気を作っていくことが楽しいのだ。「愉しみの時間」とでも言い表せようか。下手ではあっても、ウクレレを弾きながら唄をうたいたい時もあるし、柄にもなく黙々と書物に埋もれる時間も然り。ソファに身体を沈めながらゆっくりと意識が遠ざかっていく時の心地よさは、いい様のない幸福感に満ちているものだ。好きな人と過ごす時間の大切さは、もはや余分な言葉は要るまい。

 ちょっとずつ、ゆっくり飲んでいこうっと。  

2008年09月01日 19時42分50秒



恋愛は発狂ではないが、両者には共通点が多い。
―――――カーライル
2008年09月08日 23時49分41秒



 こんばんは、PCの漢字変換のアフォさに辟易としている「愛に生きる男」であります。昨年11月に買ったノートなんですが、さっきなんか「昆番は」って変換しやがりました。第一候補でこんなん出てくるなんて、欠陥商品と言っても過言ではないでしょう。


 そろそろ落ち着かねば、そう思う。








 いや、別にこの連休中に後輩の結婚式の二次会に行ったからってそっちの話ではない残念ながら。別に大した話ではない、「部屋を片付けねば」という恒例の自作自演の難題についてである。

 私の部屋だが、御存知のようにとにかく散らかっている。時おり気が向いたら片付けたりもしているので常に散らかっている訳でもないのだが、それでも片付いている状態を見たことがある人は非常な幸運の持ち主と胸を張っていい。かつて「だいき」が「いやーほんと、来るたびに基地化が進んでるよね」と言ったあたりからも、この「ひげ基地」の状況がうかがい知れるだろう。

 何故こんなに散らかるのか。原因は大きく分けて二つ考えられる。一つは単純に「物が多い」ということ、もう一つは私自身が片付けが嫌い苦手だという点である。

 物の多さについては先ほどの「だいき」の言葉からも推し量られるが、自分でも少々手を焼いているところ。多趣味なのは自他ともに認めるところなのだが、それにまつわる品々が所狭しと部屋中に格納されているのだ。また趣味の物だけでなく学術関連の書籍・論文も非常に多く、結果として非常に広い部屋であるにも関わらず、部屋中に物があふれかえるという状態に陥るのである。そんな状況下では、雑然としていても“どこに何があるか”だけはちゃんと把握できているのが僅かながらの救いと言えるだろう。
 より深刻なのが二点目、片付けが苦手という点である。もーこれは仕方がない(苦笑)。強いて原因を考えるとすると、上でも述べたように「物が多すぎて気持ちが折れる」などが考えられるが、これが「飽きる」という要素を多く含んでいる場合、事態は極めて深刻であると考えねばなるまい。また片付け中に本やアルバムなどに目を通していくうちに、次第にそっちに夢中になるのはもはや儀式

 このように見ると、単に部屋を片付けると言っても、なかなか一筋縄ではいかないことが分かる。そこで冒頭の「落ち着く」に返る。まーね、四の五の言ってないでやる事やれって話なワケだ(苦笑)。実際の問題として挙げてみると、先日買った本棚。組み上げてからけっこうな日にちが経ったが、今だに入っている本は10冊足らず。これじゃイカンな、あまりにも(笑)。  

2008年09月16日 23時27分11秒



 こんばんは、先日も日記で触れた「ボウモア」をついに封切って、ひとり悦に入っている「愛に生きる男」であります(悦)。先週のナイターで飲んだ分を以てこの夏のビールは打ち止めということにして、いよいよこっちに切り替えたところです。この夏はビールをよく飲んだので、糖分もプリン体も十分に補給しただろうってことで。いやーしかし、やっぱ好きだなぁこの味、香り(悦)。


 本日はお知らせを一つ。

 永らく御愛顧いただいて参りました「今夜も大吟醸」。2004年11月のスタートから「旧・大吟醸」「新・大吟醸」とスタイルを変えながら、気付けば4年目に突入しております。これもライターの2人と、彼女たちを応援してくれている皆様あってのこと。熱く御礼申し上げます。


 その「大吟醸」、9月・10月の番組改編の波に乗っかってうっかり新装開店いたしました


 これまでの「Mr.Jones」に代わり新たなマスコットキャラクターも登場した「大吟醸・NEO」にご期待ください。  

2008年09月23日 15時17分33秒






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