愛に生きる男の過去日記
2008年1月26日『木』〜2008年4月8日『鰯』



 こんにちは、とにかく散々な一月を送っている「愛に生きる男」であります。「散々」、新年早々からまさにこの表現がしっくりきてしまうという残念な状況に陥っています(苦)。が、考えようによってはもう下がりようがないので後は上がるだけ。そう自分に言い聞かせて頑張っていこうと思います。


 友人とコーヒー屋に行った。彼女と初めて会ったのは高校入学のとき。高校卒業後は専攻は違えど同じ大学、そして大学院へと進み、延々と同じ道程をたどって現在に至っているまさに“腐れ縁”である。現在はともに大学を離れているが、しかしそれでも時々大学で会うという奇妙な関係である。そしてこの日もその例に漏れず大学の図書館で偶然出会ったのだが、お互い口をそろえて「どしたん、何しよるん?」と言い合うあたり、もはや予定調和の極みと言うほかない。

 コーヒー屋は、大学から車で20〜30分ほど走った山奥にある。いや実際は住所表記上は市内にあたるし、そんなに激しくは山奥ではないのだが。周囲の様子と店の雰囲気が、良い意味で隔世の感を漂わせているのである。木製の家具と薪ストーブのぬくもりに満たされた部屋には、店奥から心地よい音楽が流れてくる。いたってシンプルな店なのだが、その至るところに隙間なく気配りが施されている。真冬の夜に極上のコーヒーを味わうのに、これに比肩するシチュエーションもそう無いだろう。

 そんな店内で、様々に話は続いていく。共通の友人について、お互いの現在・将来について、少々カタイ話も。無理に話題を振るではなく、自然に言葉がつながっていく、そういう“力み”の要らない時間が非常に心地よかった。それに尽きる、そんなひと時だった。  

2008年01月26日 15時13分51秒



言葉を正確に使えないということは、
思想も精神も曖昧だということになります。
―――――唐木順三
2008年02月03日 22時52分52秒



 こんばんは、週アタマからの体調不良から回復してきた「愛に生きる男」であります。今回は風邪、もしくは軽い食当たりでした。熱が出ることはなかったんですが、とにかく胃腸の不快感・痛みがひどく、食うものも食われず、体幹部がキツいので横になっていると腰や背中が痛くなるという悪循環。昨年同じように激しい胃痛を伴う風邪をひいたときに薬剤師に進められた「胃腸炎を伴う風邪の後期の症状に」という薬を飲んで、ようやく回復しました。やれやれ…。


 普段から色々と、結論が出るような出ないような漠然とした悩み事を多く抱えているのだが、最近少し気になった点について。

 それは、どうも自分の行動には「制約」が多いのではないかということ。その制約とは、その言葉から一般的に想起される外的な制約と、自己から生まれる内発的な制約とがあるように思う。後者は「自制」とも表現できようが、この言葉は“理性的に”のような形で肯定的に用いられる場合が多いように思われる。こうした「自制」に限らず、もちろんそれも含むが、より本能的とも言うべき内発的制約もあるだろう。「恐怖」という概念から生まれるものなどはその典型であり、しばしば「臆病」などと形容されることもある。しかしいずれにおいても内発的な原因から自己の行動を制限しようとするもので、現象としてはひとまず同一と見做してよいだろう。

 外的制約については、外的であるがゆえに状況を客観視しやすく、対策を講ずるのも比較的容易と言える(実現実行可能性とは別として)。その際、自己との対象化において一定の妥協や譲歩が可能であることも重要な側面と言える。一方内発的制約の場合は、基本的に発生要因が自己に内在するため意識的な分離に困難を生じやすく、結果その打開にも有効な手立てを見出すのにも手間取ることが多い。“アタマでは分かっていても…”という境遇は、これに該当する例のひとつと言えるだろう。こういった時には、往々にして深刻な葛藤に悩まされることが多い。

 こうした葛藤状態に陥った場合、あくまで私個人の場合だが、原則として自己の脆弱さが原泉にあると考える。仮に友人の誰かが同じような葛藤に悩んでいるときは、彼には彼なりの状況があるだろうし、私の論理を敷衍する気はない。だが私個人に限って言えば、自己の内在的葛藤であるなら、それを克服しうる自己の確立がその処方箋となり得るものと考える。自意識の喪失は個としての存在意義の喪失と等しく、自己と他者・周辺との相対化を通じて、独立した個としての絶対価値の確立が必要なのだろう。その絶対価値を支持し強固にする哲学の獲得を見たとき、自ずと自己の内発的葛藤は解消しているはずである。

 そんな事を考えている今日この頃。まだまだ先は長い。  

2008年02月08日 20時17分33秒



 こんばんは、頭痛で一日を丸々棒に振ってしまった「愛に生きる男」であります。ご存じのように頭痛持ちなんですが、これくらい強烈で、夕方まで起き上がることすらできない程のものは久し振り。いやー辛かった(疲)。まだ完全に抜けた訳ではないんですが、ひとまず落ち着いてくれてよかったです。


 …特にこれといった起伏の少ない日々が続いている。そのため最近の日記は極端にいえば退屈な内容が多いのだが、「カコニッキ」を見てみると、よくもこんだけ書くよなぁと自分のことながら不覚にも感心する(苦笑)。

 そんなにネタまみれな日々を送っていたつもりはないのだが、実際にあれだけハイペースでジャンルもバラバラに書いていたところを見ると、やっぱ色々あったんだろうなぁとも思う。このHPで日記を書き始めた当初は、まだ「ブログ」というジャンルも存在しておらず、ゆえに私にとっても全てが新鮮で運営も試行錯誤の繰り返しだったことも大きな要因だろう。最近ではそのブログも一般化し、mixiなどの流行もありweb上での日記も特に珍しくない。私自身もこの日記以外にも数本の日記を同時並行させているが、HPの日記しか無かった頃と比べて話題の露出先が増えていることも、開設当初との“勢い”の違いとなって表れているのだろう。

 そういう状況にあっても、このHPの日記は、私が動かしている他のブログとは一線を画しているつもりである。HPも含めて全てが“手作り”であること、継続期間が長いこと、それらに付随して、以前から重要な発表は他のブログなどではなくこの場で公表してきたことなどがその理由である。もっとも、最後の点に関しては理由でもあり結果でもあるのだが。このHPを開設したのが2003年の5月で、それと同時にこの日記もスタートしている。もうすぐ満5年を迎え6年目に突入するのだが、その間にいろんなことがあったなぁと思う。それは上述の“ネタまみれ”と、通ずるところもあれば趣をの異にするところもある。そうした事々ひとつの表れの場が、この日記だったんだろうと思う。否、“だった”ではなく、これからもそうあるんだろう。

 HTMLも手書きだし、ブログなどのように携帯から更新などもできず、最近はBBSでエロ系の書き込みとのイタチゴッコが繰り広げられおり、ハッキリ言って運営そのものは手間がかかって仕方がないのは否定できない。しかしそこは、開設当初に私自身が「風任せでいいんじゃないかな」と述べているのがまさに言い得て妙。「時々見るけど、楽しみにしとるんよ」と言ってくれる友人もいるし。そうした目を意識してやってる訳ではないが、言われて悪い気もしないのも事実。そんなに肩肘張らず、続けられる形で気楽に、ほどほどにちゃんと更新していけばいいのかなと(笑)。

 そんな感じでこれからもどうぞ御愛顧のほどを。  

2008年02月16日 22時25分45秒



 …ずいぶん間が空いたなぁ(苦笑)。こんばんは、今週末の「西風新都駅伝大会」に向け順調に自主トレを一切していない「愛に生きる男」であります。右膝の具合があんま良くなくて、ぶっちゃけジョギングとか言ってる場合じゃないんだよなー…まー何とかなるでしょう(笑)。


 初めて会ったのは…もう結構な年月が経ったなぁ。その時は私は大学院生、彼女もまだ十代だった。こう書くと分かるように、そこそこの年齢差はある。しかしお互いにそれを感じない関係だったと思う。何気ない出来事の端々から話は続き、広がり、そうして時間が過ぎていく。そんな日々だった。

 少しずつであったり、時にはグッと迫ったりと、色々なリズムで関係は近付いていった。そのリズムに最初に戸惑ったのは彼女だったが、後には私が混乱し、そのせいで辛い思いをしたし、させた。「させた」というのは如何にも独り善がりな物言いだが、私の自意識としてそう感じている部分が大きいので、敢えてそう表現したい。それほどまでに、自分の行いに対する考えは複雑なのだ。その時の自分は目一杯だったかもしれないが、その後の時間の中で自分のことを強く恥じたのも事実。“結局は自分の一人相撲だったんじゃないのか”と感じたこともある。

 何年も前の話だし、後悔はいくらしてもキリが無いのだが。  

2008年02月27日 21時18分00秒



忍耐と長時間は、
往々にして力や怒りよりも効果がある。
―――――ラ=フォンテーヌ
2008年03月04日 22時12分51秒



 こんばんは、順調に済んだはずの確定申告にミスが見つかり、明日にでも訂正しに行こうと考えている「愛に生きる男」であります。生命保険控除の計算をミスってたんですが、毎月口座から自動で引き落とされてくのでイマイチ“払った”っていう感覚が薄かったのが落とし穴。還付の額もチョコッと増えるし、きっちり直してこようと思います。


 このところ映画づいている。先月末に一本、そして今月に入っても一本観ているのだが、私としてはこれは極めて異例の事態と言える。自宅から徒歩で約10分という場所にスクリーン11基を備えた映画館があるというのに、頻度と言えば「年に一回行けば上出来」という程度だったことからもその体たらくは窺い知ることができる。友人たちのブログを見ていると映画の話題が出ることがあるが、「JP」などは最近映画館の回数券を買ったとか会員になったとからしく、私の場合とその辺の事情を比べてみると非常に対照的と言えるだろう。

 何も映画が嫌いという訳ではなく、実際CMとかを見ていて「あーコレ観てみたいわー」と思うこともよくある。が、結果として映画館に行くのは非常に稀ということになっている。映画館へのアクセスもいいし観たいと感じる興味の問題でもない。ではなぜ?まー恐らくは面倒くさがりなんだろう(笑)。よくある話ではあるが、これとバカにつける薬はないので仕方ないと思おう。必要が生じれば人は動くんだろうし、なかなか足が向かないということは必要に迫られていないとも言える。まーそもそも映画なんて“必要に迫られて”で観に行くもんじゃないのだが(笑)。

 最近みた二本、観たこと自体も珍しいのだが、更に異例だったのは両方とも邦画だったこと。これも別に邦画を避けていたわけではないのだが、何故か観るのは洋画が多くなっている。原因を深く追求することに現時点で大きな意味はないのだが、強いて言うなら“思い付き”だろう。原因も何もないが(笑)。滅多に行かない映画に行って、これまた滅多に観ない邦画を観た。上々の気分転換となった。
 一本目はCMを見て興味を持ち、たまたま時間があったので思い立って観に行った。言わばモチベーションが高い状態だったので劇中のテンポの速い展開にもしっかりとついていくことができた。二本目は一転、独特の雰囲気を持った言わば個性派の映画。一見すると奇妙な空気が常に漂っていてツッコミどころも満載なのだが、全体を流れるテーマや空気が、非常に温かくゆるやかで良い。

 映画っていいな、と思った。  

2008年03月12日 00時40分02秒



 こんばんは、昨シーズン終了時から「3番・梵」を主張し続けてきた「愛に生きる男」であります。この数年金にモノを言わせている関西のリトルジャイアンツごときにFAしてったアラなんとかっていう選手の不在など感じさせない活躍を期待したいですね。


 cornelの新曲「夜明け前」のPVを観た。今年披露された新曲で音源はブログなどで公開されていたが、私はライブで披露してくれたのが初聴きだった。その時はアンコールのアコースティックバージョンだったが、今回公開されている音源はバンド構成での演奏で、いわば“完品”と言えるだろう。「できた瞬間、鳥肌が立った」というその曲を、とくと試聴してやろうという魂胆である。演奏に関して詳しい知識がある訳でもないので、あくまで私なりの感想を記してみようと思う。当然、作った本人の意図と見つめる方角が違ったって知ったこっちゃねぇ違う可能性は覚悟の上である。

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 この曲を初めて聴いたとき、私は彼に一言だけメッセージを送った。


「“力が抜けた、少し大人になった出汐ブルース”みたいな印象を受けたよ」


 この「出汐ブルース」という曲は、彼が「mejiri」というバンドを組んで活動していた時期のもの。今や音源の入手は困難かもしれないが(未確認)、個人的には彼の作品の中でも一、二を争うほど好きな曲である。溢れ出る思い・熱量が言葉にのせられ、聴く者の心を揺さぶる力強いブルースで、そうであるがゆえに“ライブでこそ”その真価が存分に発揮される名曲である。

 そこから“力が抜けた”とはどういうことなのか。この「出汐ブルース」、語弊を恐れずに言えば“常に大上段の構え”なのである。決して否定的な意味ではなく、前述のような、弱音を吐きたくなる自分を鼓舞する熱量こそがこの曲の真骨頂であり聴く者の心を捉えて放さない最大の所以である。しかしそうあるが故に、“隙”が無いのだ。それは恐らく、“若さ”という言葉が最も妥当するところであろう。

 その上で、“大人になった”訳である。編曲から受ける印象もそうだが、出汐ブルースには無かった“余裕”があるのだ。不安と期待の中で暗中模索を続けながら“情熱”という名の灯だけで走り続ける「きみ」に対し、「一人じゃない」と優しく語りかける姿がそこにはある。それは過去のがむしゃらな自分への否定ではなく、がむしゃらであるが故に悩みも深い自分に向けた愛がある。語られる言葉は極めてシンプルだが、過度なギミックを廃した表現がメッセージを際立たせている。

 敢えて“熱さ”ではなく、“ぬくもり”と表現しよう。

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cornelについてはこちら。PVの視聴もここからできます。  

2008年03月20日 22時54分06秒



もっといい時代はあるかもしれないが、
これは我々の時代なのだ。
―――――サルトル
2008年03月27日 22時47分43秒





 こんばんは、またしても更新間隔が空いたからって気にしないことにしている「愛に生きる男」であります。この週末には「太陽プロジェクト」の作品上映イベントがあったんですが、既に先約が入っていたため欠席。出演者の一人としては残念でしたが、先約の方は非常に充実していたのでまずはヨシとします。


 買い物をしていると、魚屋の前でふと小イワシに目がとまった。刺身でもイケる鮮度のもので、しかも一皿280円とお値打ち。即効で購入を決定した。いつもは「何を作るか決める→買い物をする」という場合が多いのだが、その時点では「どう料理するか」は未定のままで、普段とは逆の手順での料理となった。まあ普段から「あり合わせの物で料理する」という事態には慣れているので、実際はそれほど苦ではないのだが。しかし小イワシで刺身やなますはよく作るし、天婦羅は油の始末が面倒なのでちょっと敬遠したい。そこでスーパーを巡回しつつ、この小イワシをどう料理するかを考えることとなった。
 そして完成したのが、冒頭の画像である。思いつくままに食材を調達して作ってみたのだが、案外うまくいったので、ここでレシピを紹介してみようと思う。



 まずは食材。画像中央、ボウルに入っているのがメインの小イワシ。それを囲むようにナス、レモン、ニンニクという野菜が並び、奥にはトマト缶と白ワイン。結構シンプルな構成と言える。


 まずは小イワシをさばく。刺身ではないので背骨を取る必要はなく、お腹と頭だけを落とせばOK。さばき終わったらザッと洗ったあとでよく水を切っておく。


 次にナスを、断面が扇型になるように切る。断面が大きいと、味がしみ込みやすくなるからね。


 ニンニクは実をほどいて、適当な量をスライス。
 これでひとまず下準備は完了なので、さっさと調理にとりかかる。


 鍋にオリーブオイルをひいて、まずはニンニクを痛めつける炒める。要はガーリックオイルを作ろうという話である。


 いい感じに色付いてきたら(左)、早くもメインの小イワシを投入(右)。
 「魚へんに弱い」と書いて「イワシ」という点からもうかがえるように、小イワシも身が崩れやすい。別の言い方をすれば“軟らかくて味がよくしみこむ”という長所でもあるので、これを損なわないように気を付けながら炒めていく。画像から分かるように、私の場合は木製のしゃもじで「炒める」というよりは「油を全体になじませる」という感覚でコゲつかないように回していく。もともと刺身にもできるものなので、そんなに執拗に炒める必要はないだろう。


 全体に油が回り、ほんのり色味がついた頃を見計らってトマト缶を投入。トマトソースでもいいのだが、逆に味が濃くなり過ぎることがあるので今回は敬遠し、カットトマトの水煮缶を使った。


 そこに白ワインと水を1:1の割合で加えて、黒コショウを少々とコンソメを2ブロック投入。この時点で結構水っぽくなるのだが、鍋全体をぐるぐるっと混ぜてやると馴染んでくるので、そこでナスを入れて、中火〜弱火で煮込んでいけば大丈夫。
 最後に、相性がいいので、火を止める直前にドライバジルを入れれば完成。好みに応じて薬味をのせるのもいいだろうし、パセリなどは彩りの点からもいい選択だろう(最初の画像)。


 書き続けていくと結構長くはなるものの、よくよく見れば切って混ぜて煮込むだけという簡単料理である。時間も、煮込む時間を除けば15分ほどしかかからないし、煮込んでいる間に別の一品を作れば夕食は完成する。手順も特に技術が要るようなものはなく、適当に食材を変えていけばもっとバリエーションも増やせられるだろう。一度おためしあれ。  

2008年04月08日 00時04分39秒






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